春の狐
そこに狐はいたのか。
彼女の住む部屋はマンションの二階にあった。そのマンションの向かいには、彼女が通勤で使っている私鉄の線路が高架を通っていて、夜中、カーテンを開けると、くたびれた人々を乗せて走り出す光の箱が見えた。いつもはちょっとした騒音くらいにしか思っていないが、夜に一人の時間を持て余している時などは、窓外を通り過ぎる電車を眺めると不思議と心が落ち着いた。窓もカーテンも閉めてベッドの上で耳を澄ませ、電車がプラットフォームに到着し、また出発する時に漏れ聞こえてくるわずかな音を聞き分けようとしていたこともあった。そして翌朝に目覚めた彼女は、支度をして家を出ると、夜に眺めていた電車に乗って職場に向かう。一日働いたあと、その電車に運ばれて帰ってくる。
電車を降りて、線路沿いに三分間の家路を行く間、彼女はいろいろなことを考える。担当している案件のこと、職場の同僚のこと、自分を好きであるはずの男のこと、読んだ小説のこと、週末の予定のこと、青い海のこと、もう会えないかもしれない人のこと、全てが報われる日のこと、など。
朝起きてから夜に仕事を終え、自分の住む街に帰って寝床にたどり着くまで、彼女は暗闇の中にいることはない。街灯やコンビニエンスストアやファミリーレストランの明かりが絶えず道を照らしているからだ。部屋の明かりを消してカーテンを閉め、ベッドの上で目を閉じると、ようやく彼女の視界は暗がりに沈む。やがて自分が眠っていることも忘れ、とりとめのない夢を見る。
◇
彼女が友人から一枚の写真を見せられたのは、冬の終わりの日曜日のことだった。その写真は夜の道路を写したものらしく、暗くてざらざらしている。道路の右側には木が生えているらしいが、左側は黒く潰れてよくわからない。街灯が照らす道の上に、茶色い影のようなものが写っている。残像で輪郭が曖昧になった、道路を横切る動物のようにも見えた。
「犬?」
彼女が訊くと、友人は「ちがう」と言った。再び、友人が手に持つスマートフォンに二人とも目を向けて、写真を少しの間眺めた。彼女は二本の指で液晶を触り、茶色い影を拡大してみたが、拡大するとかえって茶色い影としか表現のしようがなくなるのだった。
「なんなの」
友人は目を細めて笑んだ。
「これはね、狐」
「狐……」
彼女はその影を眺めた。言われてみれば狐に見えないでもないが、静止している大きいゴミのようにも見えるし、やっぱり犬が一番近いようにも思える。
友人の話によれば、この写真は先週の休みに旅行先で撮ったものだという。
「宿に帰る途中の道でね、じっとこっちを見てる子がいて、近づいてみたら狐だったの。写真撮ろうとしたら逃げちゃった」
彼女はそうなんだ、と返し、
「どうして道に出てきたんだろう」
友人はうーんと唸った。
「お腹が空いてたのかな」
「車に轢かれなくてよかった」
「うん、よかった」
かわいかったよ、狐、と友人は続けた。
それから彼女は、友人の旅行の話を聞き、写真を見た。温泉宿の厚意でグレードアップしたというスイートルームや、緑の中に整然と佇む美術館、部屋で食べた懐石料理、古い街並み、湖。
一緒に旅行したという友人の恋人は体格のいい優しそうな男で、彼女は一度だけ会ったことがあった。海外出張の多い仕事をしていることを知っていた。
「喧嘩とかしなかった?」
何の気なしに彼女が訊くと、友人は顔を輝かせた。
「今回はしなかったの! 珍しく」
今までは旅行に行くと必ずと言っていいほど喧嘩をしていたのだという。友人もその恋人も妙なところでこだわりの強さがあり、それが摩擦の原因になっていることを彼女は前々から聞かされていた。そんな二人が、ただでさえ喧嘩の種が多い旅行中に一度も衝突しなかったのは奇跡のように思えた。
スローなボサノヴァが流れるカフェの客はまばらで、彼女と友人は窓際のテーブルを陣取っていた。窓の外では、傾き始めた日が電柱や路上駐輪の自転車に差して長い影を落としている。日曜日の午後の倦怠が、彼女にゆっくりまばたきをさせる。乾きかけたおしぼりで指先を拭いた。
「明日は仕事?」
友人が訊いたので、彼女はうなずく。お互いに分かりきったことを訊くのも、時には重要であることが分かっている。
「朝から会議だよ」
彼女は両手を胸の前で組んで伸ばした。友人が「あー」と言って、
「私もイベント。めんどくさあ」
明日からがんばろうね、と言って彼女は友人の目を見た。友人のもとにあったチャイの入ったカップは、ずいぶん前に空になっていた。
友人はうなずいて、水を一口飲んだ。彼女は姿勢を直して、服の袖を少し引っ張って整えた。
「そろそろ行こっか」
友人がハンドバッグを手に立ち上がったのを合図に、二人はコートを羽織ってレジに向かい、別々に会計を済ませた。
店を出ると、西日の降る街は湿気混じりの春の匂いだった。彼女は鼻から深く息を吸い、この体を通り過ぎていった、冬の風の乾いた匂いを思った。春になれば、と彼女は考える。春になれば、何が起こるだろう。桜が芽吹き、ショーウィンドウの色が変わって、たくさんの出会いに心を弾ませる人々がいて、同じくらいの不安もまた渦を巻く、一瞬の夢のような春の季節。
彼女は友人と駅前まで歩き、友人とはそこで別れた。これから寄るところがあると伝えたのだ。友人が改札を通り抜けた頃、彼女は自分の行き先を考えていた。本当はこの街に用事などなく、友人に告げたことは嘘だった。
◇
暖かい春の夜だった。辺りは緞帳を降ろしたような暗闇で、まばらな街灯が蛾にたかられながら、ちらちら瞬く頼りない光を投げかけている。道の左側には明かりを落とした民家が並び、右側にはコンクリートで固められた塀の先に林が広がっている。温められた土と湿った葉の甘い香りが、ゆるい風に乗って彼女の鼻孔をなでる。彼女は、小さな頃、習い事の帰り道が怖くて仕方がなかったことを思い出した。あの時の少女がまだ自分の中にいて、大人になった自分は精一杯の虚勢でその少女を抱きしめている。思わず、ぎゅ、と力の入った左腕は、並んで歩く男の右腕に絡んでいた。彼女は思い出す。そうだ、自分は恋人と一緒にこの道を歩いていたのだ。
彼女の恋人は、落ち着いた低い声で「こわい?」と訊いた。彼女はんーと喉を鳴らし、「小さい頃のこと思い出したの」と言った。恋人は「そっか」と答え、左手で彼女の頭を撫でた。大きな生き物の体内のような、潤んだ暗闇の中で、彼女は自分を包む優しい膜のようなものを感じた。その膜の中で自分は生きていくのだという淡い確信に身を任せると、幸福感が全身に満ちてくるようだった。
しばらく歩くと、視界の果てに茶色い影が躍り出るのが見えた。
「なんだろう」
恋人と腕を絡めたまま彼女は歩く。近づくにつれ、その影の輪郭がはっきりしてくる。四足の動物のように見える。ふさふさしたしっぽと、尖った耳が生えている。
あ、狐だ。と彼女は思った。
その狐は、顔だけをこちらに向けて、じっと彼女を見つめていた。鮮やかな体毛は夕焼けの平原のようで、琥珀色の目が射通すように光っていた。
「狐だよ、かわいい」
彼女は恋人に囁いた。
「狐?」
恋人は驚いたような声を出す。
「狐がいるの?」
「いるじゃない、そこに」
彼女は正面を指差した。狐は、彼女と恋人が敵か味方のどちらかをうかがうように、身じろぎひとつせずこちらを見つめている。
恋人は歩みを止め、目を細めて顔を前に突き出した。しばらくそうした後、彼女の顔を見て言った。
「何もいないよ」
彼女が再び正面に向き直ると、そこにいたはずの狐は消えていた。街灯の白い光が、舗装の剥げた道の上にまたたいていた。
◇
ページがめくられるようにまぶたが開いて目覚めたあと、彼女はしばらく呆然としていた。空色のカーテンの隙間から光が差していた。首を動かすと、自分の頭が枕の上にあることが分かった。
夜闇に漂うむせかえるような春の匂いと、きつく絡めた恋人の腕の感触が生々しく残っている。
あの人は誰だったのだろう。
夢の中では確かに恋人だった誰かと、じっとこちらを見つめる狐のことを彼女は思い出した。目を閉じてみるが、珍しく二度寝もできないほどはっきり目が覚めている。スマートフォンを見ると、まだセットしたアラームも鳴らない時間だった。彼女の意識が明晰になっていくにつれ、夜に溶けた春の匂いも、暗闇への恐怖も、恋人への温かな愛情も、狐の美しい肢体も、段々と現実の光に上書きされていった。
明らかに友人から見せられた写真のせいで見た夢だったが、なぜ夢に見るほどあの写真が頭に残っているのか、彼女にはわからなかった。彼女は上体を起こし、身体を滑らせるようにしてベッドから抜け出した。月曜日は、午前十時から大人数の会議がある日だった。
通勤で混み合う電車に揺られながら、彼女はまだ朝に見た夢を漫然と反芻していた。狐の輝く目と、炎のような美しい毛並みが思い出された。狐をあんなに近くで見たことは今までにない。動物園でも見た覚えがない。なのにあんなにも鮮明な姿で、その狐は目の前に現れた。それがどうしても不思議だった。もしかしたら自分はいつかどこかで、例えばもう思い出せないような遠い昔に、間近に狐を見たことがあるのかもしれない。その記憶が友人に見せられた写真と結びついて、幼い頃に出会った狐を夢の中で蘇らせたのかもしれない。今度母親と電話することがあれば聞いてみよう。最後に話したのは年末に帰省した頃だ――そんなことを考えているうちに、彼女はもう勤め先のビルに入館していた。
◇
日一日と春の気配は濃くなり、晴れた日の昼間は暖かい。締め付けるような冬の空気はゆるんで、彼女はどこか外にでかけたくなった。今から昼休みということにして、ノートパソコンを閉じて玄関に立った。もう、週のほとんどは在宅勤務になっている。
彼女の住む街には商店街があって、八百屋がスムージーを売っていたり、パン屋が淹れたてのコーヒーを売ってくれたりする。休みの日は買い物のついでにぶらぶら歩いて、何か一つおみやげを買って家に帰るのが好きだった。
昼間の商店街は甘い花の匂いがした。生花店の軒先に、アネモネやヒヤシンスが束になって置かれているのを彼女は想像した。青や赤や紫の花綸が、鮮やかに毒々しく居並ぶ道の豊かさを思い浮かべた。
人通りは多く、マスクをしている人が目立つ。マスクは、もうドラッグストアでは軒並み品切れになっている。黒いダウンジャケットで着膨れている人もいれば、朱色のカーディガンを軽やかに羽織っている人もいた。彼女はマスクをつけていない。暖かい肌着の上に長丈のワンピースを着ていた。キャメルの生地に、ペールグリーンやオレンジの幾何学模様が踊るようにあしらわれた、彼女の気に入っている服だった。
車二台分の道の両側に、眼科や、駐車場や、バーの看板、寿司屋、金物屋、奥まったカフェの入口などが代わる代わる現れる。その隙間には木立のように街灯が並び、くくりつけられた商店街の幟がはためく。賑やかな街は奇妙に静かに思えた。歩きながら彼女は気づく。この静かさは、自分の内側のものだ。胸の内を覆う孤独が、綿のように音を吸い取っていた。
その場にうずくまって泣いてしまいたかった。春の陽が差す道を歩きながら、揺れるワンピースの生地を見つめながら、彼女は自分の足が前に出される運動の反復を歯噛みするような気持ちで見つめていた。振り払うように前を向くと、楽しげな商店街の道はまっすぐにどこまでも続いていくように思われた。
むしょうに誰かに連絡したくなって、彼女はスマートフォンを取り出す。液晶に表示されたメッセージアプリのアイコンに赤い通知マークが灯っているのを見て、なにか考えるより先に彼女の指がそれに触れた。
メッセージの送り主は、冬の終わりに狐の写真を見せてきた友人だった。
[今日の夜会える?]
彼女はその場で返信を打って、ちょうど目の前にあったパン屋でサンドイッチを買った。帰り道、友人と会う店をグルメサイトで調べた。
◇
家にいても気が滅入るので呼んだらすぐに来てくれそうな人を呼んだという友人の軽口も、今日の彼女にとっては軋んだ車輪に差す油のようなものだった。居酒屋のテーブルを囲んでとりとめのない話をしながら、なんとなく世界情勢について話題が移ったりするうちに、少しだけ酔いが回ってきた。
彼女はグラスに口をつける。あと二口飲めばおかわりを頼むと決めて。
「このまま世界が終わるとしたら」
思ってもいない言葉を出すと歯がふわふわする。彼女の手の中のグラスの中で氷がじゃらじゃら鳴って、すぐに酔客の喧騒にかき消される。
「一人ではいたくないなあ」
冗談のつもりで放った言葉の切実さに、彼女は一瞬泣きそうになった。口にしてみればこんなにも軽々と自分のもとを離れ、自由に心を刺してくるとは思わなかった。
友人は、彼女が残したお通しのきんぴらをばくばく食べて、皿を机の端に寄せた。
「私も」
そのまま目を伏せてビールを口に運ぶ。
「このまま外に出られなくなったらさ、世の中のカップルは大変だよね」
友人の独り言のような言葉が、そのまま自分たちの先行きを憂う言葉だということが彼女には分かり、少し驚いた。てっきり、友人はすっかりうまくいくようになった恋人との関係を自慢してくるものと思っていたからだ。
「うん。デートができなくなるね」
彼女は二口分を一気に飲んで、卓上の呼び出しボタンを押した。遠くで電子音が鳴るのが聞こえ、このテーブルの番号が従業員たちに通知されたのがわかった。
「デートしてるの? 最近」
陶製の深い鉢からシーザーサラダを取りながら友人が訊いた。彼女は紐で綴じられたメニューを開いて、酒の種類を吟味する振りをしているところだった。
「うーん、あんまり」
そっかぁ、と友人が言う。何か、深く手を突っ込まないと引き出せないものの存在を友人がちらつかせているような気がする。彼女はそのことに気づきながら、今はただ時間が過ぎて、店員が注文を取りにくるのをおとなしく待つことにした。酒が足りない。
お待たせしました、と息を弾ませてテーブルにきた若い男の店員に、彼女は「鳳凰美田」を一合頼んだ。
「お猪口いくつお持ちしますか」
友人の目を見る。
「ふたつで」
彼女が指を二本上げて告げると、店員は威勢よく何かを言ってテーブルを後にした。
先行きが見えないのは今に始まった話ではないので、彼女にとって大して問題ではなかったが、それでも少しずつ昏いいきりのようなものを溜めていく世情の空気が、いま二人のいる居酒屋にも確かに立ち込めていて、沈黙を破る一言目が飛び出すのをためらわせる。
「前に話してた人とはどうなったの?」
先にその一言を発したのは友人だった。また流れ出した会話の流れに、彼女はすいと乗った。
「あれから何もないよ」
笑ってグラスを口につける。がらがらと氷の群れが唇に殺到して、薄まった日向夏ハイボールの液が流れ込んできて喉を冷やす。
「うそ、けっこう前じゃない? 最後に話したの」
「全然会ってないの。LINEもしてないし」
人前で男の話をする時、彼女はいつも恋愛小説の主人公を思い浮かべた。別に自分を主人公と思っているわけではない。自分の読んだ小説の筋書きや登場人物の気持ちを語るように話すことでしか、彼女は自分の恋愛について話す方法を持たなかった。誰かを好きになり、心や身体を求め、そのために自身が傷つくことについて、本当に話すために必要なことは全部、聞き手の求めているものではないことを彼女は知っていた。たぶん、友人もそうだろう。お互いに分かっているから恋の話ができる。そうではない人と話すのは、すごく疲れる。彼女と友人を親しませているものは、お互いに一度も確認しあったことのない、ほんの些細な共通点だった。
「でもまぁ、相手も今は誘いづらいよね」
友人が言った。彼女は、話題に上がっている男について、友人が楽しんでくれそうなエピソードをひとつ思い出したので話そうと思った。「最後に会った時にね」と彼女が話し始めた時、あの威勢のいい店員がテーブルに到着して「鳳凰美田です」と言って一升瓶をどんと置いた。
「こちら注がせていただきます」
マニュアルにそう定められているのか、店員は一升瓶を両手で捧げ持ち、彼女たちに見えるようにちょっと掲げてから一呼吸置いて、一合分の底の深い片口に酒を注ぎ始めた。その動きの機械的な慣れが、この日に焼けた人のよさそうな店員には全然似合っていなくて、見ていると彼女は心地よかった。
酒を注ぎ終えた店員が「失礼します」と言って下がり、テーブルには「鳳凰美田」の堂々たる瓶が残される。もちろん自由に飲んでいいという意味ではない。彼女と友人は、めいめいスマートフォンで瓶と片口の並んだ姿を撮影した。彼女は細い指でつまむように、お猪口をそれぞれの前に置いて、ずっしりした片口を両手で持って静かに傾けた。
透明な液体が、友人の手の中の小さな器に満たされていく。
「ありがと」
続いて友人が彼女に同じことをした。彼女は、こんなふうに丁寧な仕草で自分に酒を注いでくれた男がいたことを思い出していた。幾人かいる。あの丁寧さが何を意味していたのか、今となってはもうわからない。二本の指の間に収まる小さな世界に、透き通った、どこか遠くの酒蔵で大事に大事に醸された酒が注がれて、気泡を生じながら波打つ。
この瞬間の気持ちだけが、真実だった。彼女は噛みしめるようにお猪口を見つめていた。まだ飲んでもいないのに、見ているだけで酔いが回ってくるようだった。一瞬の気持ち――泡のような一瞬の真実を抱きしめて、残りの空虚を生きるのだ。
彼女が件の男について話そうとしていたことは、なんとなく流れてしまった。彼女と友人は、同時にくいっとお猪口を傾けた。桃園の誓いみたいで少し笑えたが、一人足りないし説明も面倒だったので彼女はその笑いごと胸の内にしまった。
言葉少なに、そのままにこにこと何杯か飲んで、ようやく二人共に酔いが回りきったのだった。呂律が乱れ始めた友人が、その日の本題を口にした。
友人は二日前に恋人と別れていた。
◇
目覚めると、喉のあたりがだるくて重い。胸が半分沼に沈んでいるような感じがする。彼女は枕の上で頭を横にして手を伸ばし、枕元のスマートフォンを探した。手繰り寄せた冷たい筐体を顔のそばで操作すると、液晶画面には[07:51]という表示が見えた。二日酔いなのに、目覚めるのは早い。
やけにベッドの端の方に自分が追いやられていることに気づいて、背中側にあるものを探ると、布団の塊だと思っていたものは人の背中だった。一瞬ぎょっとする。心臓がどきどきしている間に、寝ぼけた頭が段々と昨日の記憶を蘇らせる。友人とうちで飲んで、そのまま寝てしまったのだ。
彼女は自分の顔を触り、髪を触り、最後に身に着けている服を確認して、どうやら昨夜の自分がシャワーを浴びて着替えてから床についたらしいことを確認した。見ると、友人も彼女の寝間着を着ている。ご丁寧に、ソファの上には友人の分に加えて彼女が昨日着ていた服まで畳んで置いてある。
部屋は暗かったが、カーテンの輪郭に沿って溢れるように光が漏れているのを見て、朝日が眩しく差しているのがわかった。一足に季節が進んだような気分になる。
二度寝の誘惑に駆られたが、昼前になって友人ともぞもぞ起き出す自分の姿を想像すると、身支度で浪費されるだろう時間を疎ましく感じた。彼女は絞る前の雑巾みたいな体をなんとか引きずり、ベッドから這い出てソファの上の自分の服を抱え上げ、脱衣所まで運んで洗濯ネットに入れた。くるりと振り返って洗面台の蛇口を回し、口をゆすいで服を脱いだ。シャワーを浴びたら、友人のために朝食を買ってこようと考えた。目覚めたばかりの、花の匂いのする商店街を彼女は思い浮かべた。
彼女がコーヒーのドリップバッグとベーグルを買って帰った時、友人はちょうど寝返りを打ってベッドの真ん中で大の字になったところだった。
ダイニングテーブルの上に買ってきた物を載せて、洗面台で手を洗ってから彼女はベッドの横に立った。友人の呑気な寝顔をしばらく眺めてから、買い物袋をがさがさとあさって朝食の準備に取り掛かった。電気ケトルに水を入れる。ランチョンマットと陶器の平皿を取り出してテーブルに並べる。アルミホイルを引き出して買ってきたベーグルを乗せ、オーブンレンジに入れる。
昨日、居酒屋で友人と話したことが切れ切れに思い出された。友人の、優しい恋人。その態度に違和感を覚え始めたのは、旅行から帰ってすぐのことだったと話していた。
「旅行中に考えてたんだよ。私とどうやって別れるかって」
友人は歯噛みしてそう話した。彼女はしばらく相槌に徹していたが、聞いている内にたまらなくなって、言葉を尽くして友人を励ました。一緒にいようと決めた相手が自分から離れていくさまを語る友人は、自分を痛めつけることで何かかから許されようとしているようにも思えた。酔いは言葉の回転を助けた。友人に精一杯の言葉をかけながら、身を切るような愛しさが彼女の胸中に溢れ出た。
レンジの中のヒーターがじりじりと赤くなり、電気ケトルの中の湯が騒ぎ始める。自分がどんな言葉を友人にかけたのか、彼女は思い出そうとした。自分の声が、それを聞いている友人の赤ら顔と一緒に、文脈を無視して断片的に思い出される。あなたは間違っていない。とにかく繰り返し、そう伝えたのだ。好きだったとか嫌いだったとか、あの時本当はこう思っていたとか、そんなものは全部まやかしだ。今。今、私はあなたのことが好きで、あなたを大切に思っている。この一点と向き合わない全ての言説は聞くに値しない言い訳だ。大体そんなことを何度も何度も違う言葉で話した気がする。
殴りかかるように友人に浴びせた数々の言葉は、友人を突き抜け、居酒屋にいる客や店員や、店の外の通行人、街の住人、世界中の人間に向けて飛んでいった。一時は互いを尊重しあった人間をすげなく蔑ろにできる全ての人間に聞かせてやりたいと思った。友人の恋人がどんな人間か、事の顛末が本当はどうだったのか、そんなことはどうでもいい。今、目の前の友人を世界の誰よりも愛そうと思った。話すうち彼女の目には涙が滲んだ。友人も泣いていたような気がする。
どのように話を切り上げて店を出たのか、そのあたりの記憶は曖昧だったが、閉店時間になった時に自分たちのテーブルだけ店員が会計を取りに来ないで、気を遣われた事がわかって二人で笑ったことは思い出せた。
結局は自分の言いたいことを言っただけな気もするし、本当に目の前の友人のことを思って言葉が止まらなかったような気もする。彼女は、自分の中にある言葉について考えた。ふいに口からひらりとこぼれて自分の胸を刺す。堰を切ったようにごぼごぼと溢れて世界中を浸そうとする。自分の中に、こんなに多くの言葉があるのが不思議だった。
オーブンレンジが甲高く鳴いたとき、電気ケトルは沈黙していた。彼女はレンジの扉を開けて、アルミホイルの端をつまんでベーグルを引っ張り出す。ケトルのスイッチをもう一度押して、沸かし終えたお湯を再びぐらぐらさせる。
◇
カーテンを開けると、友人は「ああぁ」と言いながらすぐに目を覚ました。それがあまりに面白かったので、彼女はひとしきり笑ったあと、寝ぼけ眼の友人をベッドの脇に立たせて自分が寝転がり、その寝起きを再現した。友人は彼女以上に笑い転げて、しばらく笑ってから「頭痛いわ」と言ってシャワーを浴びに浴室へ歩いて行った。自分の実家のような慣れ方だった。
窓の外では、ガラガラの電車が銀色の体を光らせながら通り過ぎてゆくところだった。湯上がりの友人と、ハムとチーズを挟んだベーグルを食べながら、彼女はとりとめのない話をした。今日これからの予定、延期が決まった勤め先の入社式、実家の親が心配して送ってきたもの。
昨日のことについて、友人は「ありがとうね、昨日」とだけ彼女に告げた。彼女は「ううん」と言って、淹れたてのコーヒーを勧めた。
南向きの部屋の中は、晴れた朝の明るさでしらじらとしていた。友人の表情からは毒気が抜けて、白い肌にきらきら光る双眸の上には艶めいて絹のような亜麻色の髪がかかっている。とてもきれいだった。彼女は、友人のことを羨ましく思う自分に、その時気がついた。
感情が溢れて止まらない夜だった。泣きはらした後、あるいは眠りすぎた後のように、目の奥の喉とつながるあたりに、自分の中の何かが枯渇した感覚があった。コーヒーを飲むと、そのすぐそばを熱い液体が通り過ぎていくのがわかった。
「昨日言ってくれたこと、ちゃんと覚えとくわ、私」
友人がぽつりとこぼした。最初、独り言と思って彼女が聞き流しかけるほど唐突に。
「私、なんかいろいろ言っちゃったよね。感極まっちゃって……」
友人はベーグルを両手に持ったまま、ふふふと笑った。
絵本に出てくる少女みたいだ、と彼女は思った。
「だいぶ熱かったよ」
「うーはずかしい」
彼女はコーヒーカップを片手にうつむいてみせる。友人の顔から目をそむけたい気持ちもあった。自分は二日酔いで、泣きたい気持ちで商店街を歩いた昨日の延長線上にある自分だった。でも友人は明らかに、昨日の夜に居酒屋にいた友人とは別の誰かに変わっているように思えたのだ。
「写真も全部消すわ。これから」
友人は、退役した軍人が自分のバッヂを軍服から外して置くみたいに、スマートフォンをテーブルの上にことんと置いた。写真、と聞いて、彼女はある日の夢のことを思い出した。
「あっ、ねえ、狐の写真も消しちゃうの」
友人は一瞬「なんのことだ」という顔をしたが、すぐに「あぁ」と破顔した。最後の一口分だけ残ったベーグルを皿に置いて、コーヒーを一口飲み、
「消す消す。真っ先に消したいよあの写真は」
「え、どうして」
「昨日話さなかったっけ」
またひとつ、彼女の脳裏に昨日の記憶が蘇った。友人が恋人と旅行の思い出話をしている時、あの狐の写真の話になったということだった。友人の恋人は狐に出会った夜のことをあまり鮮明に覚えていなくて、あまつさえ「狐なんていたっけ」などと言い放ったという。夜道を歩きながら、頭の中は自分とどうやって別れるかでいっぱいだったのだ、と友人は言った。――私が「狐だ!」って言ったら、彼も「ほんとだ、かわいいね」なんて言っていたのに。忘れるなんてありえない。私が「覚えてないの?」と問い詰めたら、「あ、そういえば。思い出した」なんて。覚えてねえだろ。結局私だけが何も知らずに楽しんでたってこと。驚いたことも楽しかったことも美味しかったことも――友人は一息にそこまで喋って、チェイサーの水をぐいぐい飲んだ。
彼女は、「そうだ、話したね。あのあとうちら大変だった……」と言って、かぶせるように友人がけらけらと笑ったので、自分の思い出した記憶が正しかったことを確認できた。同時に、胸の底がひやりとした。友人だけが、狐を見たと言っている。
友人の恋人だけがこの世でただ一人の正気でいる人間で、自分たちはとっくの昔に気が狂っているのかもしれない。
「消す前にもう一回見せてよ」
彼女が言うと友人は、ベーグルの最後のひとかけを咀嚼しながらスマホを操作して、彼女に手渡した。あの時、冬の終わりのカフェで見た、暗くてざらざらした写真だ。中央の上の方に、茶色い影が写っている。見れば見るほど、ロールシャッハ・テストみたいにいろんなものに見えてくる。
でも、これは狐なのだ。友人がそう言うのだから、狐以外の何ものでもあり得ないのだ。旅先の夜道で、恋人と歩いているときに、目の前に現れた狐。夕焼けの平原のような体毛。琥珀色の、射通すような瞳。
彼女の目に唐突に涙が浮かんだ。好きな人と歩いているとき、狐に出会うようなことがあったら、絶対に忘れてはいけないと思った。昨日の夜に吐き出したはずの感情が、風が吹いて酸素を得た燃えさしみたいに、赤々と光りだすのが分かった。
だって、こんなどうしようもない写真しか残らないなら、一緒にいた人が覚えていないといけないのだ。こんなことがあるから、全部がわからなくなる。一緒に見たもの、一緒に歩いたこと、その時の気持ち、二人のものになったことのあるものなんて、本当は何一つないことを彼女はもう知っていた。全てはその人だけの目に映る一瞬の景色だ。
「ねえ、どうしたの」
友人が心配そうに彼女の顔を覗き込んでいた。友人はこの写真を消して、狐を見た夜のこともいつか忘れるだろう。彼女は「ごめん」と言いながら涙をぬぐい、「あくびこらえたら涙出ちゃった」と言って笑った。